平安時代に仏教を教えた中心的人物として知られているのが空海です。
唐の国から真言宗の密教を日本に伝え広めた人物としても有名です。
62歳で高野山にて入定(にゅうじょう)するまでの空海の人生について、詳しく見ていきます。
誕生と成人まで
空海は774年6月15日に、讃岐の国、現在でいう香川県善通寺市に生まれました。
佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)の長男であり、本名は真魚(まお)です。
子供の時から聡明で信心深い性格だったと言われています。
784年、空海が11歳の時に長岡京が遷都されました。
15歳になり、都に上り母方の叔父である阿刀大足(あとのおおたり)から儒教(じゅきょう)を学びます。
阿刀大足は桓武天皇(かんむてんのう)の皇子である伊予親王(いよしんのう)の教授です。
しっかりと学問を尊び大学に入学するものの、貴族の子弟の立身出世主義に対して疑問を抱きます。
反発心から大学を中退することになります。
その後、山岳修行者から虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を学んで、各地にて修行に入ることになるのです。
20歳頃になり、自身を空海と名乗ります。
平安京遷都~
794年空海が21歳の時に、平安京遷都となり平安時代へと突入します。
奈良の久米寺にて『大日経(だいにちきょう)』に出会い唐に渡る決意をして31歳まで勉学や留学資金の調達など準備をしたようです。
804年31歳の時に、遣唐使船にて長崎県を出航し、8月に中国の福建省に漂流したものの12月に唐の都に無事に到着します。
翌年32歳で密教を受け継ぐ青龍寺(せいりゅうじ)の恵果(けいか)に入門しました。
2年後に経典や仏像、密教法具などを持って帰国しますが、私費留学20年の規定に違反するがゆえに大宰府に留め置かれてしまいます。
36歳の時に最澄(さいちょう)からの誘いがあり、京都の高雄山寺に入ることになります。
その後、高雄山にて鎮護国家の御修法(みしほ)を行い嵯峨天皇との交流が続いたようです。
最澄らに灌頂(かんじょう)を授けたものの、813年には最澄からの理趣釈経(りしゅしゃくきょう)の借用願を断り、最澄との関係が不和になりつつあります。
40歳の時、最澄と決別し、門弟を養う場として高野山にお寺を開くことを嵯峨天皇に願い出るのです。
その願いが受け入れられ、空海はゆくゆく自分が入定する地を高野山に決めました。
高野山での入定まで
821年には嵯峨天皇から香川県のまんのう池の修復工事の依頼を受けて3ヶ月で回復させます。
823年に嵯峨天皇より京都の東寺を賜り、ここが真言密教の本道場になるのです。
55歳の時東寺に、綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を創立して「人は皆、仏になれる」と説きます。
58歳で病気になりますが、翌年万燈万華会を行います。
61歳の時に国家の平和を願うために後七日御修法(ごしちにちみしほ)を行いたいと願い出て、翌年に実行しました。
そして3月21日に高野山にて入定し、61年の生涯に幕を閉じました。
まとめ
真言宗の開祖である空海について、生まれてから入定までの生涯がわかりました。
別名「弘法大師」は、醍醐天皇から生前の功績に対して入定後に贈られた諡号(しごう)です。
空海の存在は現在も日本仏教に大きな影響を与えたとして讃えられています。