理趣経(りしゅきょう)は真言宗でよく用いられているお経の一つです。
通常の読み方とは異なる独特の読み方をされ、密教の秘法を説いたお経とされています。
なぜ秘法とされるのか、なぜ独特の読み方で唱えられるのか見ていきましょう。
理趣経とは
理趣経は金剛頂経十八会(こんごうきょうちょうじゅうはちえ)のうち、第六会に登場する他家自在天(たけじざいてん)における大日如来(だいにちにょらい)の説法だと言われています。
「般若波羅蜜多理趣経(はんにゃはらみったりしゅきょう)」とも呼ばれ、日本語でわかりやすくいうと、仏の正しい智慧(般若)に至る方法(理趣)を説いた経典のことです。
同じ経典を漢訳したものが6種類あり、そのうち、三蔵法師玄奘(さんぞうほうしげんじょう)が「大般若経(だいはんにゃきょう)」の第58巻を「理趣分」として訳したのが最初となります。
そのため、理趣経は般若経典としての性格もありますが、内容から見ると密教の要素が強いです。
なお、密教としてのルーツを持つ真言宗においては、漢訳6種のうち、空海が重んじていてた不空が訳した1巻が用いられています。
構成
真言宗で用いられている理趣経は、17段で構成されています。
第一段は総説で、第二弾から十六段までは各論です。
総説では大日如来が教えを説いています。
人間が肉体的に持つ五欲は、悟りの立場から見れば清浄だと説きました。
これを全体で17段で説明しているので、十七清浄句と呼んでいます。
十七清浄句で語られること
十七清浄句では性行為による恍惚感、性行為によって得られる解放感や支配感、性的な悦楽感、異性を意識して外観を飾る行為、性行中の光り輝くような感覚など、伝統的な仏教の世界ではタブー視されるような性欲の数々が並べられ、それらがそれぞれ「清らかであるから菩薩の境地である」と説明されています。
もっとも、これを真に受けて実践してはいけません。
なぜかといえば、これは最初の総説で大日如来が述べているように、悟りの境地に至った仏の世界から見れば清浄だということです。
悟りの境地を開けない、この世の方から見て、奨励されるものではありません。
事実、この十七清浄句をそのまま実践した真言宗の立川流は異端とされ、排除されています。
悟りの境地から見れば、清浄と言われてもわかりにくいですが、密教には煩悩即菩薩という考え方があり、煩悩さえ悟りのために利用するというのが、この理趣経の意味するところです。
秘法の理由
秘法とされたのは重要な教えが書かれているからというよりは、誤解されかねない性欲を讃える句が並んでいるからです。
空海と最澄が、この理趣経の取り扱いでもめたというエピソードも残されています。
理趣経は法要などでしばしば用いられるのですが、内容を理解できないよう、通常の呉音ではなく、漢音のままで読まれています。
まとめ
理趣経は大日如来が人間の欲も悟りの境地から見ると清浄だと説き、十七清浄句では性欲を認めるような句が並んでいます。
このことから秘法とされ、内容がすぐにわからないよう、ほかとは違う漢音読みがなされます。